エンディングから始めよう
電話で最近のオンセを振り返っていたら出てきた話題を、とりあえず殴り書きで。
シーン制に慣れていなかった頃は、PLが「キャラクターの視点や立場・利害」に縛られ、ストーリー全体から俯瞰した「メタ視点」からシーンを捉えるという意識が薄かったので、展開に詰まる部分がたびたび見られました。
が、徐々に慣れてくると、先の展開を盛り上げるためにあえて不利な選択肢を選んだり、迂闊な行動を取って自らを窮地に追い込んだり、流れ的に必要と思えるシーンをGMや他のPLに要求して作ったり……と、PL側がストーリー進行に直接関与する要素が増えてきます。PLがGM化していくという感じですね。
そういった進歩に対して大きな助けになったのが、エンディングフェイズの自己申告設定だと思います。
当初はほとんど「セッションに対するPC視点の感想を含めたモノローグパート」でしかなかったエンディングが、物語的に綺麗な結末やオチや新たな伏線を自ら演出する格好の機会になり、やがては「あらかじめエンディングフェイズを想定し、そこへの着地を目指してストーリーの流れをコントロールするようプレイする」という意識やノウハウが自然と身についてくる……というわけです。
この手法が際立っていたのはV:tMオンセのクラリーチェ。自分自身の結末について「炎に包まれて死ぬ」という明確なイメージを持ち、そのためにセッション序盤で「燭台を囲んで他のPCと会話する」シーンを設定したことが、ストーリーに陰影を与えて趣深いものにしていたと思います。
また内輪贔屓な話になっちゃいましたが、「エンディングフェイズはPLがシーンを作り出して自在に操るための格好の練習台だよ」ということで一般論に還元しておきます。
もちろん、自分が望むエンディングを確立するためには、そのイメージが独り善がりすぎない(他のPCが持つビジョンと上手く共存できる)こと、GMとPLが信頼しあって預けるべきところは相手に預けること、セッション運営が旧時代的なアドベンチャーゲーム形式の「正解探し」から脱却すること等も必要になるわけで……。この話、たぶん続きます。
蛇足:「ゲーム性」って何なんだろう?
で。改めて最近の自分たちがやってるセッションを振り返ると、あまりにもスムーズに話が進んでいるので一見「ゲーム性が乏しい」ように感じられるんじゃないかなあ?と思います*1。
ここで言う「ゲーム性」とは、PLの前に障害を配置して「どうやって突破しよう?」と悩ませることだったり、GMが事態の真相を隠しておいて推理させた上で「正解に達するまでは話が動かない/誤った推理をすると状況が悪化する」という形で悩ませることだったり、とにかく「PLvsGM」という色が濃いわけですが……、
でも本当に「ゲーム性」っていうのはそれだけなのかな?と。
前項で軽く触れたように「PLがGM化していく」と、必然的に「PLvsGM」という対立構造は薄れていきます。その代わり、GMの果たすべき司会・裏方的役割と見られがちだった「セッションの円滑進行」や「より面白いストーリーラインの創案」が新たな「ゲーム性」としてクローズアップされてくるんじゃないか……と、自分は考えます。
イメージを出す人間が増えれば話も面白くなるけれど、その分イメージ同士の衝突やせめぎあいも増えるわけで。他のPLやGMが持つビジョンと上手く折り合いをつけ、時には取り込んだり融合させたり、流れに合わないビジョンは潔く自分で取り下げたり修正したり……そういった匙加減や舵取りを意識的にこなせるようになれば、「ストーリーゲーム」としてのTRPGを一層楽しめるはず。
この部分を追究していくと……GMが障害を配置してPCを足止めし、その突破方法について悩ませるという「対立の図式」は、必ずしもTRPGに不可欠だとは言えないのかも?*2
もちろん従来式のゲームゲームしたTRPGセッション(「障害を克服する楽しみ」を主眼としたもの)が無意味だとか撲滅すべきだとか言いたいわけじゃありません。ただ……少なくとも、GM/PL双方の目的が「ストーリーの停滞を避けて、円滑にドラマを進行させる」という点で一致している場合は、従来的な「足止め」は邪魔になりやすいということです。